オゲレツ隊の系譜 初めて過去が暴かれる!
年月 主な出来事 史実 関係メンバー その他
古生代 昭和〜 〜'94 それぞれの団隊で それぞれの隊・団で活動していた時代。吉田-海老原ラインはこの時代に生まれてる。途中数度にわたり中島Gと接近遭遇するが、一緒にコトをおこすことはまだなかった。
しかしながら双方ともスカウティングの2大制度である「進歩制度」「班制度」に加え「奴隷制度」を勝手に採用し3大制度としているところに共通性を見出すことができる。
吉田-海老原-杉浦-種田(北相馬1団)、中島-村田-佐藤(稲敷1団)   
遭遇期 '94〜95頃 WB研修所にて シニアー課程の所長の吉田さんと、ビーバー課程の所員の中島が飯村師匠の紹介で正式に出会う。シニアー課程でカヌーを行うにあたりフィールド情報の交換をする。
また、何故か翌年のカブの研修所に海老原、村田、佐藤が入所し新たに同期ラインができる。同時にここで研修隊長中島と何故かわからないが入所していた海老原とも正式に出会う。
吉田−中島、中島−海老原−村田・佐藤  
接近期 95.3 シニアー・オーストラリア派遣 ここで中島と種田が出会う。第1回の派遣であるため派遣団本部に前吉田理事長(隊長の父)、現川又理事長、堀江、武田とそうそうたるメンバーの中で、比較的年齢の近いこの2人が親しくなるのは必然であった。
以後3回の派遣の中で、村田、佐藤も参加しこちらのラインもできあがる。
中島−種田−村田・佐藤  
寄り合い期 96.11頃 75周年ビデオロケハン 吉田さん(この頃は「さん」付け)から、75周年ビデオに出演しないかという誘いがあり、そのロケハンを兼ねて集まったのが、直系弟子海老原と傍系弟子中島が集めたこのメンバーだった。その時の役柄は吉田団委員長、海老原隊長、中島副長・・・・であった。そして、この悲(喜)劇はこの時おこったのだ。これがオゲ隊のはじまりと言っていいだろう。 吉田、海老原、中島、杉浦、村田、種田、佐藤、 関連記事
黎明期 97.1〜2 75周年ビデオロケハン&本番 氷点下の中、夏のシーンを撮るという無謀なロケを通して、各人の関係はより深く・太く・艶めかしくなっていくのであった。しかし、その間には6地区海老原グループ、5地区中島グループの構図は厳然と残っていた。 吉田、海老原、中島、杉浦、村田、佐藤、織田倉、成毛、(石井、山口)   
中生代 オプセ期 97.4 日連創立75周年オープニングセレモニー 75周年式典小委員会の委員長に吉田さんがなり、その委員に中島がなる。その関係で若手指導者&ローバーが起用された。彼らはそのセレモニーで、「日連旗」「世界スカウト旗」の旗手としての栄誉を茨城のスカウトとして初めて与えられた。以後彼らは「奴隷」として忠誠を尽くす(?)のであった。 吉田、中島、杉浦、村田、石井、種田、佐藤   
白痴期 97.6 第267回指導者講習会
吾国山・洗心館
第3地区担当の指導者講習会の主任講師が吉田さんであった。そこに講師として呼ばれたのが海老原・中島であり、また3地区の若手で当時副コミだった宮田であった。その時ひょんなことから(単なる悪のり)「よしだとちしととオゲレツスリー」が組織され、オゲ1海老原、オゲ2中島、オゲ3宮田という呼称がついた、いや、つけた。
この名称が気に入ってしまったためか、このあたりから会うたびに名前ではなく、この呼称を使い始める。そしてだんだんとエスカレートしていくのだった。
隊長・吉田、1海老原、2中島、3宮田   
結成前期 97.8 第4回関東キャンポリー 茨城県連の副本部長:吉田、広報部長:海老原、行事部長:中島という構図ができあがり、当然のごとくその部員等に現在のメンバーがそれぞれ就任する。またしても楽しく悪のりしながら海老原はキャンポリー新聞で、中島は各行事随所にオゲ隊をほのめかす活動を展開して遊んでいた。
茨城独自の行事の展開に中村と金井を中心とした茨ロー会を要請したことから、急速にこのメンバーが一体化していった。しかしまだこの時点で「オゲレツ隊」という名称はなく、相変わらず「吉田とちしととオゲレツ10」と呼び、勝手に隊員ナンバーをふっていた。現在のマークはこの時のものである(OG6成毛作)。
吉田、1海老原、2中島、3宮田、4杉浦、5成毛、6村田、7中村、8種田、9佐藤、10金井   
新生代 結成後期 97.10 日連創立75周年中央記念式典 オゲ隊の骨格がほぼ固まった時期である。式典・レセプション総合プロデューサーとして吉田隊長が、音楽班として中島・村田・金井・種田・佐藤が活躍し、五味田がレセプションの司会として抜擢される。また一方で、茨城県連引率&記録隊長として海老原副長が取り仕切る。この委員会を通して東京・千葉・日連の現客人と実力を認め合い、より深い友好関係を結ぶ。これは今後のオゲ隊にとって大きな意味を持った。 吉田、海老原、中島、村田、金井、種田、佐藤、五味田 関連記事
確定前期1 97.11 なぎら組結成 75周年の慰労を兼ねて、阿見1ローバー隊が那珂川で1泊のカヌー集会を開く。そこで「なぎら組」が結成される・・・・が、即時オゲ隊に吸収されてしまった。 中島、村田、金井、佐藤、五味田他 関連記事
確定前期2 97.11 マッチョ組結成 海老原を中心とする「釣り大好き隊」の釣果披露のために集会を持つ? そこに集まったのが、いずれも筋骨隆々(単に太っているだけという噂もあるが・・)のメンバーであった。そのため以後「マッチョ組」と呼ばれる。 海老原、杉浦、成毛、織田倉、種田   
確定期 97.12 第1回那珂川雪辱戦 前回の雪辱を兼ねて、那珂川を再度攻めることになった。しかし、前日からの大雨で水流・水量とも激しく、それにもかかわらず決行した結果、吉田隊長を筆頭に約半数が川の藻屑となり果て・・・・そうになる。この悲惨な(? 楽しい)体験により参加者の結束はより堅固なものとなって、ここに晴れて「吉田とチンひととオゲレツブラザース」が誕生する。それまでの経緯より各自にオゲナンバー及び役務が与えられる。 オゲマスター:M吉田(隊長)、1海老原(副長)、2中島(副長)、3杉浦(副長補)、4宮田(隊付)、5磯(上班)、6成毛(マ班長)、7中村(マ次長)、8金井(な班長)、9織田倉、10村田(な次長)、11種田、12佐藤、0五味田 関連記事
拡張前期 98.8 第12回日本ジャンボリー これまで培ってきた友好関係をフルに活用し、GHQ,SHQ,派遣隊の各セクションで活躍するとともに、新たな友好関係を築き、オゲ隊(「オゲブラ」等いろいろ呼び名はあったが、結局は「吉田とちチととオゲレツブラザース」通称「オゲレツ隊」、略称「オゲ隊」が定着する)の輪を全国に広げる、いや轟かす・・・・か。 売店:M吉田・1海老原・3杉浦・5磯・若野、広報:有野・2中島・0五味田・8金井、野管:村田、3SC:7中村・12佐藤、派遣隊:11種田   
現代 拡張後期 99.5 WB研修所VS茨城2期 研修所の所員・業務の主要メンバーの半数オゲ隊が占める。たまたま所員となった吉川県副コミが謙遜して「末席でいいから」と言ったがために、本当に末席隊員となってしまう。オゲ隊に隙を見せてはならないことが証明される。ちなみに長谷川・伊澤の両氏はこの時、喉まで出かかった入隊志願の言葉をあわてて飲み込んだという。 吉田、海老原、中島、宮田、杉浦、村田、佐藤、13吉川 関連記事
伸張期 99.6 日連高井事務局長を拉致 75周年以来お世話になっている日連の高井さんが正式に事務局長に就任したのをお祝いして、東京銀座にて祝宴を開く。その場で、副長海老原が自作名刺を配り「オゲ隊」の存在を大いにアピールする(やることにスキがない)。その結果、特別客人として高井事務局長、東京有野、千葉佐藤、神奈川若野の4氏を迎えることとなった。言ってみるもんだ。 吉田、高井、有野、佐藤、若野、海老原、中島、杉浦、金井、五味田、(くま青木)   
のほほん期 99.8 第6回那珂川〜初めての夏川下り〜 オゲ隊では、なぜか今までは季節はずれの晩秋〜冬にかけての川下りしかしたことがなかったが、ここで初の夏季川下りを実行した。しかし、直前になってM吉田、3杉浦が敵前逃亡。そのため初めて副長以下での隊集会となった。ところが暑くてたまらず、思わず「のほほん」&「だら〜」の川下りとなる。13吉川は入隊後初の隊集会に地区行事(日韓交流会行事部長)で参加できなかったために、緊急幹部会で非情にもオゲナンバーを剥奪され「永久末席」の称号を得ることになり、替わって、たっての願いで参加した8金井の同僚「うらら」がオゲ13を名乗ることが許されたのだった。 海老原、中島、成毛、金井、織田倉、村田、佐藤、うらら、(青山) 関連記事
第二次成長期 99.10 カブラリー&ビーバーラリー またしても主要ポストを占める。情報企画部長にM吉田、広報記録部長に1海老原、行事部長に2中島と。そして隊員それぞれが各部のポストに就任し、5,6地区の若手リーダー&ローバーで結成する「IRON」と2地区ローバーを従えステージ&アトラクションで大活躍する。それが縁でこの不況の中、隊員が一気に7名も増える結果に。そのため組織整備を行い、4班編制となった(?) またWB以来様子を見ていた長谷川・伊澤もインストラクターとして入隊することになった。 情報企画部長:吉田、広報記録部:海老原・成毛・織田倉・種田、行事部:中島・杉浦・磯・宮田・金井・五味田・佐藤、新入隊員:野島・山田・伊藤・筑肘・高橋・大塚・大野、インスト:長谷川・伊澤 関連記事
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